圧倒されて、店を出た。圧倒的だった。
思い出しても頭の中にモヤがかかる感じで、その体験は鮮烈であったが謎めいていて、モヤの正体はそこなのだろう。
カレーですよ。
アンドシノワーズは営業店ではない。だからすーっといって入れるわけでも誰もが予約を取れるわけでもない、特別の隠れ家のような場所だ。
端的に言うと二人組のユニットが普段は料理教室として運用するスタジオで、そこにスペシャルデイがあって極限られた数人がそこで食事を振る舞われる、と言うような空間だ。ただ、そんな言葉だけの説明では表しきれない不思議な空気を湛えた場所なのである。
東京のとある町。夜になると人通りも途絶えがちなオフィスが連なる場所。その一角に古いビルがある。もちろん看板などあるわけもなく、ポツリと灯りが灯る入り口を、本当に入っていいのかビクビクしながら扉を開けて階段を登って行く。
たどり着いたプライベートダイニング「アンドシノワーズ」にはどことなく南国の空気が漂う気配があった。「仏領インドシナ」というキーワード。気を許すとこの場所が冬の東京の、古いビルの一室であることをうっかり忘れてしまうような不思議な空気なのだ。旅行に来た感覚とも違う、なんというのだろう。親しい間柄の外国の友人の部屋にやってきた感があった。
この夜のお誘いはちょっと特別なもので、トップフードスタイリスト、マロンさんからのお誘いであったが、他のメンバーもプラチナフーディーたちばかり。気遅れを感じるほどのメンツ、とはいえ食で繋がるスペシャリストたちはすぐに打ち解けて楽しい空気が漂う。
ここ「アンドシノワーズ」はインドシナというキーワードを柱に、園健さんと田中あずささんのお二人が彼の地の食文化に正面から向き合い、アジアの土着料理、華僑の人々の食文化からの影響、そして植民地政策があった時代の宗主国、フランスの食の影響などを見据えた料理を提供してくれる。
ただ料理を出してくださるというわけではない。田中さんの気遣い、園さんのお喋りやインテリア、空気、一体となってひとときのインドシナトリップに連れて行ってもらえる場所なのだ。
現在のベトナム、ラオス、カンボジアといった地域は先に挙げた食文化と土着の郷土料理が融合して大変に興味深い料理と文化を生み出している。野性味感じる部分とヨーロッパの洗練を等しく内包し、そこに私たちが知っているアジアの料理とはほんの少しニュアンスの違いを見せ、それが大きな驚きになる。なんと面白いことか。
まるで日本の郷土料理のような甘辛い味で煮付けられた鯉。懐かしささえ覚えながら食べるのだが、ふと気がつくとぶつ切りで入った鯉の扱いにアジアの魚料理を想起させられる。そんな中から突然豚肉を角煮的に仕上げたものが現れて驚かされる。このセンスは日本的なものでは全くない。相互の旨みを活かすための魚と肉、両方の食材を入れる手法は新鮮だ。「皮、鱗が美味しい場所です」と園さん。その線もやはり日本人にはない感覚。勉強になる。
カオニャオを手で捻ってそのタレで食べると南国料理なのに日本の田舎料理のような既視感があってめまいを感じる。
豚肉のバナナの葉の蒸し焼き。プラホックアンであろうか。バナナの葉で包んで蒸し焼きにする手法は東南アジアから南アジアにかけて広く分布する。アンドシノワーズで出てきたそれは、豚肉と発酵調味料のプラホックをあわせたもの。南国的なハーブ使いも印象的。
プラホックはカンボジアの魚醤のようなものだ。プラホックはカンボジアなのでクメール語。プラはプラー(タイ語も同様)で魚のことだろう。これは半固形のディップ的な感じで生野菜と共に食べる。旨い。スライスされたスターフルーツと合わせるというセンスに脱帽する。これがよく合うのだ。
ヨーロッパのサラダ風とでも言おうか、美しい見た目のハーブと魚のサラダ。緑の中に見え隠れする白身魚は鯛。緑はハーブ類でミントやセリなどが入る。ディルを少し入れる、というよりも他の葉っぱ類と同じくらいたくさん入れるのが楽しい。エディブルフラワーまではいる。
面白いのがこのサラダをカオニャオ、餅米で食べることを推奨されるのだ。これには驚いた。魚醤でトスしてありライムで引き締めてある、サラダ。それと、ごはん。ところがこれ、意外なくらい合う。ああ、なんという。初めての体験だ。脳の深い部分を刺激される。
ちょっとこれも合わせてみては、と園さん。水牛の皮入りの辛い調味料。これがまた旨かった。水牛はラオス産だとか。これだけでもごはんがすすむ。
焼きバイ貝は素朴なものだが同じくラオス産の塩胡椒にみかんを搾ってそれにつけてやって食べる。うーん、なんだかまったくおもしろい。そしてきちんとおいしいのだ。
豚モツの和えもの。ラープであろうか。例のタイ料理のあれだ。が、これはラオス料理だったか。
鶏肉と根菜の煮物。日本人的には一番カレー風に感じる料理であろう。インゲンにわりと火を入れずにポリポリとした食感を作ったりカフィアライムの葉が入るのもらしい感じ。
ドリンクのセレクトは、料理研究家の石松利佳子さんが素晴らしいワインを揃えてくださって大いに堪能。石松さんご自身からワインの解説を聞けるのが贅沢であった。
田中さんがにこやかに腕を奮い、料理を仕上げてくれるあいだあいだで園さんが料理とそのバックボーンについてお話をしてくださるのがまったくもって価値があり、楽しくて仕方がない。永遠に続けばいいと思いながら、最後にはしぶしぶと席から立ち上がった。
本当に夢のように時間が過ぎ去って、帰り道。
皆さんとお別れしてまだ少し薄寒い東京の街を歩きながらも、どこかに熱気と湿気と魚醤の匂いを感じてしまう。
そんな夜だった。