【見学】(座間 日産自動車 座間事業所)圧巻、日産ヘリテージコレクション。

クルマを見て気持ち、心が大きく動いたことはありますか?その幸せな体験はたくさんのクルマに関する経験といろいろなものがシンクロしなければ体験ができないのじゃないかな、と思っています。少し前に神奈川、座間でそんな体験をしました。

広報さんから、

 

「日産ヘリテージコレクション」

 

へのお誘いをいただいたのです。大変に光栄。とにかくなかなか予約が取れない日産、座間工場の奥の奥。そんな場所にプレス扱いでお誘いです。断る理由がありません。なので通常のツアーではなく、お題がありトークセッションが聴けるというのもスペシャルです。

今回、

 

「NISMO 40周年 レースカーからロードカーへ」

 

と題されます。東京オートサロン開催に合わせるようにNISMO40年の歴史を振り返るという趣向。これは見逃せないな。

NISMO SUPER GT GT500クラス総監督の木賀 新一氏、NISMOチーフ・プロダクト・スペシャリスト饗庭貴博氏、日産アーカイブスから柿元 邦彦氏、真行寺 茂夫氏を迎えてのトークセッションというちょっとわかる人なら鼻血が出るような内容!

通常コレクションの他に今回のトークにも出てくるヘリテージモデル、R33 400R、Z33 380RSと現行モデル、ARIYA NISMO、Z NISMO、GT-R NISMOの展示もあるというスペシャルな内容です。

 

そしてセッション後のコレクションの自由見学で、わたしは実は日産が大好きだったことが改めてわかってしまったのです。もちろん他のメーカーのクルマも負けずに大好きだよ。現在手持ちのクルマはホンダとメルセデスだし実家にCT110(ハンターカブ)なんてのが置いてあるしね。創業者の個性とオートバイも作っているというところからホンダ、スズキにはちょっと贔屓目になってしまうんです。

が。が。あふれ出る記憶に色々と押し流されそうになったのです。日産の歴代のクルマを見ているうちに。

 

わたしの亡くなった父は水道屋でした。

わたしが子供の頃に親父に乗せられて行徳あたりにザリガニ釣りに連れてってくれたクルマが水道屋の仕事のためのダットラだった記憶があるのです。たしか写真もあったはず。そのダットラが置いてあったんです。うーん、ちょっと呻き声が出てしまったぞ。うん、たぶんこれだな。ダットサン1200トラック デラックス。この顔、覚えてるもん。

あの運転席のすぐ後ろにある荷台のステー。あれに掴まって荷台に立ち、木更津だかの原っぱを走ってもらったことがあったはずです。そのクルマに座間の日産ヘリテージコレクションで出会ってしまったんだよ、2025年のお正月に。強く胸にこみあげるなにかがありました。

トラックも色々あって面白かったな。働くクルマは好きですよ。とても好き。

サニトラは100年作り続けてほしいなあ。

 

わたしの奥さんが嫁入り道具で持ってきたクルマが水色のパオでした。

20代の初めの頃にアルバイトであるにもかかわらず無謀にも新車購入をして大事に乗ってきたらしいクルマ。バブルなど言われていたあの頃らしい浮かれたエピソードでかわいらしいねえ。ルーフが開くタイプのものでコレクションの個体が装備も色も全く一緒の仕様でした。そう、これだったよ。

この屋根が曲者でね。コレクションの個体もじっくりと見てしまったんですが、軟質素材のスライドルーフです。そういうやつは当然という感じで経年劣化で中央部分あたりが必弓形にず縮むんだよ。縮むとレールとの間に隙間ができて雨が漏る、、いや、吹き込むんだよ(笑)。そういうのも含めて楽しいクルマなんです。別にいいの。弱点なんかじゃなかった。

わたしもずいぶん運転しました。下部ヒンジ式のリアゲートを開ける時の重さとか、艶のあるプラスティックのステアリングの感触とかシフトレバーのシボの感じとか。メーターフードの薄く突き出た庇部分、メーターの大きなサイズとか。今でも克明に思い出せます。三角窓、すごく便利で好きだったなあ。これ戻せばいいのに、現代のクルマに。

あのゆっくりした加速はどうにもあのクルマのキャラクターに似合っていたなあ、と思い出します。部品がなくてねえ。海外からリビルドのラジエーターなんかを引っ張ったりしていましたが維持を諦めました。もう10年以上前かなあ。九州に専門店があるらいしね。

 

スカイライン、所有したことはありません。好みで言うとR32あたりのGTS-tなんてのは心憎からず思っていたんですが。ちいさいスカイライン、いいよねえ(ラングレーじゃなく)。

で、じつはそのご先祖さま、2000GT-Aと通称されるプリンス スカイライン2000GT(残念ながらS54ABじゃなくてAのほう)のステアリングを握ったこともあるんですよ。すごくない?高校を卒業した頃、付き合いのあった先輩が中古車のブローカーをやっていて、たまに変なのを転がしてくるんですよ。一時期彼、青いケンメリのスカバンなんか乗っててイカしてるなあとか思ってました。

その夜はS54Aだったんです。「運転してみるか?ブレーキに気をつけろよ」といわれてキーを渡されましたた。これがさ、もうね、止まらないのです。サーボついていなかったか、それともバキュームいかれていたか。ものすごくこわかった。夜だったんですが、遠お〜くの方で前車のブレーキランプが点った瞬間にありったけの力を入れてブレーキペダルを踏んづけるんです。それで、ギリギリ止めれる感じ。いやあ旧車の怖さを思い知ったなあ。それとも整備前だったか。いまとなってはわかりません。

このカロッツェリア・ミケロッティデザインのプリンススカイライン。特撮が好きな人なら誰の愛車だったか覚えているよね。劇中ではコンバーチブルボディのものが出てたはず。

このぺったりとした彩度が低めの赤、いい色だねえ。当時の雰囲気が強くあると思います。いい赤だ。4ドアGT-R。いい。R32の通称オーテックGT-R、RB26DETTノンターボナローボディの4ドア。アレのご先祖さんってことになります。なるのかな。

そうやってクルマを見て歩くうちに実際に乗った日産車がたくさんあったことをこのコレクションは思い出させてくれました。運転したものではなくても憧れのクルマやプラモデルで作ったもの、ミニカーを持っていたものなどの現物を見ることもできて、ちょっと気持ちの大きな揺らぎがおさまりません。

 

まぼろし、と定冠詞がつくクルマ、たくさんあったよ。

通称R380、正式にはプリンスR380(A-I型) 。これは幻というより伝説のクルマです。1966年第3回日本グランプリ優勝個体。それが目の前にあるってんだからね、見学者はほとんど誰もいないような状態で。たまらんなあ。クルマと二人だけの時間がたくさん作れるこの日でした。

例の激戦、1964年の第2回日本グランプリ。「スカイラインGT」が「ポルシェ904」に優勝をかっさらわれ、悔しさをそのまんま形にして翌年の日本グランプリでポルシェ906を返り討ちにしたあのプロトタイプレーシングカー、砂子義一選手の11号車そのもの。当時プリンス自動車はすでに日産との合併を控えており、その最後のレースでR380でのワンツーフィニッシュを飾るという花道を自ら作ったのでした。NISMOによるフルレストアで動態保存。まったく素晴らしい。胸が震えます。

ゼッケンなしの車体は速度記録車、R380-AII。国際スピード記録チャレンジの車体。日本グランプリが中止になったのち、当時の国際記録を上回るタイムを叩き出したやつ。谷田部のテストコースがFIA未公認だったため国内記録にとどまったというエピソードがありました。翌年谷田部コースがFIA公認となりR380-AIIでふたたびチャレンジ。計7種の国際記録を樹立。最高速重視のため日本グランプリの11号車とはボディの腰上のシルエットがかなり違います。

グループ7を駆け抜けたR382もありました。V12を積んだダイナミックな平べったいデザインと当時らしいソリッドカラーは忘れ難い。父がこのプラモデルを作っていたのを覚えています。古いアニメーションのルパン三世でこれに乗るシーンがあった記憶が、、どうだったかな。初期のルパン三世はマニアックなヨーロッパの車がたくさん出てきていた印象があります。

まさに幻そのもののR383も並びます。1970年の日本グランプリ中止、以降も再開がなかったため走行を予定していたレースがなくなってしまい本当の幻に。レースフィールドを走れなかったレーシングマシンです。美しい個体だなあ。

R38シリーズの名を受け継ぐR390、しかもロードカーまであったよ。思わず声が出てしまう。たしかトムウォーキンショーの仕事だったはずです。

当時の雑誌を穴があくまで眺めた記憶があるもんね。

通称ケンメリレーシングGTR(スカイラインハードトップ 2000GT-Rレーシング仕様)などあまりにも近くにあって手のひらにじわりと変な汗が出てきたよ。イラストや写真で憧れた、レースに出ている写真が一つもない当時の子供にとっての「謎のレーシングカー」でした。あれがドアノブに手をかけられるほど近くにある。これはイラストレーションのポスターを貼っていました。美しいクルマだ、と思ったから。

 

幻といえばプロトタイプカーもいくつかありました。MID4。

まさか2025年にこの目で見ることになるとは。なんてこった。

完成度の高いデザインといい感じの小さなサイズ感に今更ながら「なぜ市販まで漕ぎ着けてくれなかったか」とため息が出ます。

 

Z33 先行検討車なんていう妖怪みたいのまでが出てきたよ。

Z33フェアレディZのスタディモデル。どうやら中身はS14シルビアらしい。こちら方面に舵を切っていればZ33は原点回帰のミドル、現代の尺度でいえばライトウェイトモデルになっていた可能性もあるという大変興味深い試作車です。S14シルビアベースのZは米国日産でもオリジナルのものをデザイン、プロトタイプを完成しせていたと記憶しています。この個体はあのZファーザーであるミスターK、片山豊米国日産初代社長も栃木テストコースで乗ったという逸話も持っている伝説的車両。

で、こっちの案に決まった。

このZ33は市販車じゃなくてプロトタイプじゃなかったかな。ホイールとかこれはショーモデルのやつだった記憶がある。

クルマ好きだからさ、こういうのも雑誌とかネットで見知ってるんだよねえ。まさか自分の目で現物を見られるとは思っていなかったけど。

 

ラリーカーたちにはまいったな。

わたしはラリー、こんなに好きだったけか、と自問しました。それくらい夢中になって見てしまったよ。

240Zの生々しく残る歴戦の深い傷跡。右ライトナセルのあたりがごっそり消えてなくなり、左に回ってみればフロントフェンダーごと丸々なくなっています。シャーシに無理やりライトをくくりつけているのが痛々しい。こんな姿でゴールに飛び込んできたのかと思うと胸がえぐられる想いです。

ドライバーのゴールを目指す意思になんとしても答えてやろうというクルマの側の意志さえ感じて涙ぐんでしまった、ほんとに。人車一体、がむしゃらにゴールを目指していたんだね。1973年の第21回東アフリカ・サファリラリー総合優勝を得た車両、そのものです。タミヤで出てたよね、これ。ゴール時点の凄絶な姿をそのままに保存されていました。胸が大きくズキリと動きます。

そうやってわたしは実は日産が大好きだったことがわかってしまったわけです。レーシングカーが好きで、クラシックカーが好きで、ラリーもチューニングカーも働くクルマもみんな好きで、クルマという機械がみんな好きだったことがわかりました。世界中のあらゆる乗り物が大好きです。

このコレクションを見て歩き、改めてクルマを目の前にして気持ち、心が大きく動いた体験を大切に思います。ありがたい場所を作ってくれた日産に、いまこそエールを送りたい。なくなってもらっては困るものというのがこの世界にはあるのだからね。