吉田マスターのカレー、久しぶりになりました。ちょっと切らしてしまっていたよ。あの味を知る人にはもう伝説的と言ってもいい、かつて江ノ島にあった「ビッグサー / Big Sur」のカレー、レトルトカレーです。
カレーですよ。
マスターはいまはもう彼岸の向こう側にいますが、こちら側にレトルトカレーを残してくれたんです。大手のメーカー製ではないもの。ご家族が個人でそっと製造販売をしてくださっているんです。本当にありがたいことです。
少し前、今年川を渡ってしまった荻窪の「馬来風光美食」エレンさんのレトルトカレーを食べました。その時に何人か、こちらに残る我々にその記憶としてレトルトカレーを残していってくれた人がいたことをつらつらと思い出して、書いて、そしてふと気がつきました。吉田マスターのカレーが切れている。これはいかんな。
せめて彼の岸辺に行った人のカレーくらいいつでも食べられるようにしておこうと思っています。それで、アナン父さんや小野員裕さんのカレーをストックの追加をせねばと思っていたのだけど、まずは一番手に入れづらい販売の入り口ひとつだけの、
「ビッグサー / Big Sur」
のカレーをね。久しぶりに注文をお願いしました。
数日後に届いたそれ。なんの飾り気もない銀色のレトルトパウチなんですが、その中にはマスターの叡智が詰まっているのです。温めて、オーバルのうつわにそそいで、少しでも「ビッグサー / Big Sur」風になるように画を作ってやって。そういうのが楽しいです。
そんなことをしている間にも、封を切った時点であの江ノ島の駅から少し離れた、暗い店内にたどり着いたような気持ちになるんです。
香りが強くて独特の個性があるんだよ、本当に。ひと口すくって口に運ぶと、きたきた、これだこれ。頭の毛穴がぷつぷつと音を立てて開いていくこの感覚。ああ、これだな。これだよマスター。いつもの吉田マスターのカレーの感じ。
香りあくまで高く強く、上品とはまた違う野生的、奔放な気高さがあって、その中にちょいと傲慢な感じも出ていてね。主張と言い換えることもできるかな。しかしその傲慢さに引っ張られて向こうの手中に落ちるというような、振り回されるようなこの食体験。ああ、まったくおもしろいなあ。時空を越えて江ノ島のあの洞穴のような店の中にすっ飛ばされるような嬉しさがあります。たまらんな、ほんとうに。
その苦味と香ばしさは人を選ぶ味だと感じます。だからこそよくぞ、と思ってしまうんだよね。仕事柄いろいろなところからの官能試験など引き受けたりするわたしですが、それはつまり大多数の人々の舌をシミュレーションできるか、今、現在の世の中の舌の嗜好と落とし所を理解しているか。
そういう基準を前提で意見や感想を出してゆくわけです。そんな見地に立つと、よくぞまあこの味が存続してくれているな、という感想がこぼれ出ます。それはつまり、あの江ノ島の偉大な店の味が変わらずそのままであり、店の味自体が客を選ぶようなものであったが故、当然レトルトカレーもそうなるという話しなのです。またくもってこれでいいし、だから本来なら幻になりかねないものだと感じます。
しかし、故人がその命運尽きる寸前まで追いこんで完成させたこの味、大メーカーが作るのではなく、そのレシピに忠実に故人の家族が努力を惜しまず吉田マスターの意向通りに個人で製造販売をしているんです。だからこそ、尊いものとして実現しているんだよ。大事に食べずにはいられない。
だからわたしは、マスターの名誉を汚すような感度の低い舌の持ち主には食べてもらいたくないという気持ちがあります。食べ人を選ぶカレーなんです。それでいいと思う。選ぶのは向こう。客じゃなくてね、カレーが舌を選ぶんです。それは彼の地でこちらをみているマスターの意向だと思っています。そしてだんだんマスターのやりたかったことや行きたかった方向に自分の心と舌が追いついてきている気がするのです。
いや、気がするだけかもしれないな。マスターは止まってない人だから。今も向こうでせっせと研鑽を重ねているに違いありません。