【写真展】須田誠作品展「風の庭園」を見に行ってきた。すごかった。

刺激を受ける、とはこのことか。脳みそをマッサージされるような気分になったんですよ。写真展を見に行って。東中野のポレポレ坐の上階にあるギャラリーで先日行われた、

 

須田誠作品展「風の庭園」

 

圧倒されました。

少し前に須田誠さんにわたしのラジオでおしゃべりをしてもらいました。その時にクラウドファンディングを展開、見事達成。そして須田誠作品展「風の庭園」が開催となったわけです。

とにかくおもしろかった。とにかく、

 

「なぜ」

 

が浮かぶ展示、作品でした。美しいしその美しさに驚嘆、気持ちが動くわけですが、それと同じかそれを上回るくらい頭に浮かぶのが「なぜこれが写真?なぜこういうふうに撮れる?まるで絵画のようなのはなぜ?:という疑問。

言葉にしてしまえば「水面に映る自然の風景を撮影してカンバス地にプリント」、という身も蓋もないものなんですが。でもそれまったく説明にもならないし本質という意味で、意味ないただの言葉の羅列なわけです。作品を見ると口をついて出るのが「なぜ写真でこういう表現ができるのか」という言葉。いや、むしろ「これは写真なの?」という素朴でストレートな感想が多くの人から出ると思うんです。

わたしを含め、カメラを使う人、好きな人たちはともすると撮影技法や種明かしを求めてしまう悪いクセがあります。写真を撮るあなたならわかると思います。見始めた時はそうだったんです。そうだったんだけど、見ているうちにそんなことはどうでも良くなってくるんだよね、これが。美しくて心地がいい。その自分の心の変化も面白いです。

ただ、もう美しいんです。印象派のような、などいう言葉は陳腐だし無意味だ、なんてね。そう書いたら本人の須田さんが「新・写真印象派」と掲げてらっしゃる。そうだよねえ、そう見えるもの。

色を楽しみ、揺らぎを感じ、自分の頭や気持ちの中に須田誠さんの生み出した色や揺らぎを重ねてやる方が心地がいいからね。技法は後回し。人は雲を見て色々なものを想像します。それに近い感覚がすべての作品に共通してあると感じさせてきます。

対になった作品がありました。それはわたしがそう思っただけかもしれないし、写真家が意図したかもしれない。狙ったかもしれないしたまたま写真を選んでいる時に引っ張りある2枚を見つけたのかもしれない。意図があるとすれば洒落た組み合わせのシンプルなフレームが色違いで対になっていたから。なのに「これを飾るならこの2枚の並びをくずしてはいけない」と感じます。すごくこちら側に向かって伝わってくるの。

3D写真のような奥行きと、現実とあっち側の狭間のような不思議な立体感の感覚。これもまた一体どうして、があるなあ。

先ほど書いたわたしが気に入った青と茶の対になる作品は一転してべたりとした凸凹のないテクスチャーを感じます。違う感覚を覚えるのにどちらにも不思議と串刺しになったテーマを感じるんだよね。美しいものなのに凄みすら感じさせてきます。

額選びも心地よいんですよ。意図して絵画のように、というものもあれば突き放すようにシンプルに、というものも。なるほど、こういう部分にも作家の意図が出るんだね。それを気づいたり、拾い上げたり、しかし間違っているかもしれないと思い直したり、そういう時間がなんとも愛おしい。楽しいねえ。

実は須田誠さんには作品についてわたしのラジオ番組の中で一度話を聞いていました。風、水の揺らぎ、日がさす時間、たくさんの条件あり、それを経験としてからだの中に溜め込んで、そういう色々な要素をカメラを通してそこにあるものに向け、シャッターを落とす。そういうものらしい。時間も世界の流れも味方にしないと作品として形にはならないことが容易にわかります。それをやり切るためにこそ、年単位の時間をかけているんです。そりゃあ凄みも出てくるってものだね。

ポートフォリオは見せてもらっていました。しかしアーティストが作品の意図を反映させたサイズでの仕上がりこそ作品な訳で、サイズが違うだけで色合いまで違って見えるんです。実物、意図あるものを見ねばいけないと痛感。

圧倒される、ではなく、さりとてさらりと見ておしまいにできるでなく、世界にはこんなやり方があるのだと思い知らされて色々な部分がゆさぶられました。まったくすごいもんだ。

どんなアートもそうかもしれないけれど、これらは須田誠さんの作品であるわけですが、彼の心象を定着してあるはずなんですが、しかし、作品と対峙すると、見ているものの内面との対峙のような部分が出てきます。そういうものを強く感じさせる作品群でした。作品群と言う言葉さえ、使うべきかを考えてしまうよ。だから購入して自宅に飾ってじっくりと生活の中で眺める、なんてのがいいのかもしれないね。

 

いったい、これはなんだろう。