カレーですよ4395(巣鴨 プルジャダイニング)お弁当を詰めてもらいにプルジャさんのところへ。

インドのお弁当箱がいくつか自宅にあるんですよ。

これに料理を詰めてもらうという醍醐味はね、なかなか他に変えがたい楽しさがあるのです。

 

 

カレーですよ。

 

 

一連の新型コロナ蔓延の状況からお弁当包材が不足してきています。それで、手持ちのお弁当箱をぶらさげていってそこに持ち帰りを詰めてもらう、なんてのがいいじゃないとかそういう話が出ています。

いろいろと付随する話もあるにはあるのですが、店も買う側も慎重に衛生を鑑みつつ、とかそういう自然な対応と自己責任の力をお客が持って当たるという姿勢が日本の食の澱んだ場所に流れを作ってゆくのではないかと思っています。

なんてことは関係なくわりとこのお弁当箱をぶらさげてインド料理やネパール料理を買いに行ったりします。食べきれないものをこれで持って帰ってもいい。そんなことを普段からたまにやっているもので、慣れたもんなのです。

この日は行きたくて仕方なかった、

 

「プルジャダイニング」

 

で持ち帰り。

プルジャさんが出してくれたシナモンのお茶を飲みながら、注文します。おお、ヌンさんも厨房から出てきてくれた。元気そうだね。顔見られてよかったよ。

メニューはもちろんあるんですが、それはいいの。プルジャさんに「3000円分なんかつめて」とお願いする。「カレー入れる?」と聞かれて「うん。おなかすいてるよ。」と返すわけです。するとなんだかいい感じにいろいろ詰めて返してくれる。ね、いいでしょう。こういうの、たまりません。

「写真撮る?」と聞いてくれて、お弁当箱をバラしてくれます。いい香りが漂い、自宅のダイニングが恋しくなります。おなかすいちゃったよ。

さて、長居しちゃいかんよね。名残惜しいけど帰らねば。

 

さて、おうち。おうちでプルジャさんのごはん。止むに止まれず、でそういていますけど悲壮感はありません。むしろ贅沢を感じます。

いろいろたくさん入ってきたなあ。

さっきプルジャさんが一通り説明してくれたけど、帰ってきてお弁当箱を開けたら頭から吹っ飛びます。

美味しそうだなあ、だけが頭に残ります。まあ、いいんです。全体で「プルジャ料理」というジャンルなので。それはもう、いつも通り。

モツの炒め煮は下処理が丁寧なのがわかる絶妙なクセの残し方。

クセ全部抜いちゃあモツを食べる意味がないものね。でもちょっとでも逸脱すると匂いがキツくなる。

それを自在にコントロールしてあって唸らされるねえ。

トマト、パプリカと筍の煮物、これ絶品。

特に筍の仕上がりが素晴らしくて、コリコリ、パリンと心地よい歯応えがたまらんものです。

なんとなく西洋料理でも通りそうだし、でもやっぱりネパール料理だし、ネパール料理というよりも、プルジャさん料理。

豆の煮込みは調味控えめでどのおかずと合わせても破綻ないのが素晴らしい。

わりと豆の煮込みはどこでもそんな風に仕上げるね。

ナスと豚の煮込み、これが独特な食感と香りで面白くて何度も確かめながらスプーンを運び、知らぬ間になくなってしまうという代物。

これはおいしい。こりゃあとまらないなあ。

これも酒のアテにぴったりです。もちろんご飯のおかずとしても超優秀。

菜葉炒めも、メティのアツァールも、蜂蜜梅干しのような、でもそれではない何かも、どれもこれも美味しすぎて困ってしまう。

うーん困った、むぐむぐ。

プルジャさんの料理を食べると思うのは、やはりおもしろいのは家庭料理だなあ、ということ。レストラン料理も祭事の食も興味深いけれど、やはり本当の意味でのその国の土着の料理というのは家庭料理だなあ、と思い出させてくれるのです。そしてプルジャさんはその家庭料理を上手に店で出せるよう工夫して提供してくれる。やっぱりプルジャさん、最高だな。

 

本来お母さんの料理は外では食べられないものです。だってそれは家族のためだけに作るものだから。

それを日本の東京で、ネパールのお母さんがやってくれている。こんな奇跡のような店はこの地上にここくらいのものだと思います。

浅草のサウスパークもそうなんですが(なんといったん閉店を決めたそう。また新しく違う場所で!とおっしゃっていました)東京は世界の食の実験場でもある、なんてことも言えるかもしれません。

本当にこの東京の外食には無限の可能性があるんです。

だからこそ、行かずになんの意味があるか!いつもそう思うんだよね。

 

店に行って、食べて、話を聞いて。それで初めて体験として成立するんです。

だからこそいま、個人商店の飲食店をみんなで大事にしなきゃならないタイミングなんですよ。

みんなにそのことをわかって欲しいのです。