食器輸入卸の商社「アジアハンター」の小林真樹さんがしばらく前に著された書籍があります。
「日本の中のインド亜大陸食紀行」といいます。大変に興味深い、もはや人文・民俗学の域に入るのではないかという怪書とも言えるくらいの力作なのです。まあよくここまで網羅し、掘り下げ、まとめたなと驚かざるを得ない。これは名著です。とにかく読んで面白く、情報量が多い。皆さんにも手にとって欲しいと強く思う本です。
カレーですよ。
その本の表紙に載っている店に行ってみたいと思っていました。
この本の表紙、本当にいい写真で、どこをどう見ても日本の空気がないというまったくもってすごい写真です。書籍の表紙を飾る店として実にいい雰囲気を持っていました。
この日本に本当にこんな場所があるのだろうか、とさえ感じます。
ちょっと別件もあって茨城、栃木方面に出ることとなったので寄ってみることにしたんですが。
まず、地図を見てその場所に向かうわけですが、普通の人の目ではまず見つからないであろうと思います。なぜってあの表紙の画は、細い生活道路からもうひとつ分引っ込んでおり、そのうえ両脇の植え込みや建物のあいだで縮こまっているのですから。わたしのような外国人コミュニティに強い興味を持っている人間でギリギリ対応可能、というところでしょうか。
実はわたしも看板は見つけるには見つけみつけたんですが、果たしてあそこに自分のクルマで入っていっていいのだろうか、という判断、その即決をためらうくらい下界と空気や温度が違う。
これはちょっとすごいぞ。
2度ほど前を通り過ぎて、覚悟を決めてクルマで店の前へ入ってゆきます。パキスタンの女性がこちらを見てにっこりしてくれました。少しほっとします。
男性もいました。彼は厳しい顔でわたしを一瞥、店の隣の工房のようなところへ引っ込んでしまいます。うーん、プラマイゼロか、それ以下か。
「ブルームーン」
は見る人が見れば驚くような食堂です。わたしは食堂たるものこれくらいでいいと思っているのですけど。
ホール、というよりも大型冷凍施設らしき設備に半分がたスペースを占拠されているこの空間。いや、そうではなくその冷凍機材の空いている場所に申し訳程度の席を作ったふうに見えますね。そっけのない店内ではありますが、壁面装飾の薔薇のステッカーとハートの壁紙、市松模様の床がどこか愛らしく、想いが伝わってきます。ウェルカムな意味だと感じます。
そんなハードコアなホールでもパキスタンのお母さんは優しいんです。先ほどにっこりしてくれた彼女だね。
メニューはないようです。驚きもしません。そんなもんです。そう言う感じのお店、よく当たります。まあ、海外でですが(笑)
メニューがないんじゃなくてその日できるものが1種類用意されるだけだからメニューの必要がない店、ないしはただもうメニューブックがないだけで口頭で伝えればいいし、と言うスタンスの店。ここは、後者。
聞けば「チキン、マトン、ダール、ヤサイ」と教えてくれます。
野菜をもらいますと答えると、野菜は何がいいか、と聞かれました。いつくか出た野菜の提案の中から好物であるゴビを選びます。カリフラワーのことですね。
いろいろな意見がありますが、知らない南アジアのレストランに行くと決まって野菜か豆の料理を頼むことが多いんです。多くのコックさん達は賄いで野菜類を食べる可能性が高いと考えています。毎日肉料理ではやはりきついよね。自分達の食べる料理は手を抜かないはずで、それはつまり野菜料理に対してある程度の技量を持っているはずだと考えています。
さて、ゆっくりと風で回る換気扇から漏れ出す光など眺めながらゆっくりと料理を待ちます。作り置きなぞあるわけもなく、野菜を刻む音から聞こえてくることに嬉しくなります。。急ぐ旅でなし。ね。おや、知らぬ間に「旅」などという言葉を使っていましたね。そうか、そういうことか、そういう空気は確実にここでの体験にあるのだな。まったくその通りだね。
そんなことを取り止めもなく考えているうちにやってきたこれ。
アルゴビというか、ベジタブルジャルフレージというか。シンプルなスパイスと味付けの大変おいしい野菜の炒め煮です。じゃがいも、にんじん、カリフラワー。きちんと素材の味を尊重しつつ簡潔でシャキッとした味付けに仕上げられており、好感を覚えます。おいしい。
この料理にインクルードなのかどうなのかは気にもならないんですが。塩味のラッシーをジョッキで出してくれます。これが料理によく合うのですよ。
おいしさにニヤニヤしながらぐいぐいと食べ進んでいると、たまに先程のパキスタンのお母さんがやんわり優しい空気を醸し出しながら様子を見にきてくれます。チャパーティーをジェスチャーで勧めてくれたりします。
そんなタイミングで「友人の小林さんが書いた本の表紙が素敵だったので食べにきたのですよ」と本を見せて告げると彼女は嬉しそうに本の表紙と自分の顔を交互に指さしています。そうか、写真に写っている女性は彼女本人なのか。なんとも楽しいやりとりです。本を見てきたことを喜んでくれているようで、こちらもうれしくなります。
あらかた食べ終わったところで突然ゴージャスなスタイリングのサラダが登場。なんだなんだ?
どうやら言葉はできずともいろいろと話しかけてくるこの日本人をよく思ってくれたようで、これを出してくださったようす。気持ちがとても嬉しいし、楽しい気分になります。とてもお腹がいっぱいになりました。
チャパーティーの2枚目はハンカチで包みました。
食べ終わってもどうにも腰が上がらないな。
この気怠くゆっくりと流れる時間と空気。そとからウルドゥー語のかわいらしい子供の声が聞こえてきます。生粋の下町生まれのわたしですが、なぜだかまるでラホールの郊外あたりであのお母さんの息子として生まれ、実家に帰って寛いでいるような気分になります。
支払いは驚くお安さ。お礼を言って外に出ます。
隣の工房をのぞいてみると、どうやらここはナーンのファクトリーのようでした。丸い餅のようなナーンの種を女性が伸ばして機械に入れています。どうやらベルトコンベア式(トンネル式電気オーブン)のローストマシーンのようですね。丸いナーンがきれいな焼き目をつけて出口からゆっくりこぼれ出てきます。
男性に聞くと日本語はしゃべらない様子。さっきのお母さんよりも日本語が上手なお喋りそうな奥さんが教えてくれました。どうやらこのナーンを卸しているんだとか。たしか小林さんの本にもナーンファクトリーの話が書かれていたはずだったね。
漫画「乙嫁語り」の舞台は19世紀のカスピ海沿岸。その中の描写で村の共同の竃に女性たちが集まって粉を練り、丸く整形して美模様を入れて焼き上げるというシーンがあります。森薫先生のそれら描写はきちんとした取材をバックボーンにしているようで見ていていろいろな納得ができるところが多いのです。
中東からインド亜大陸周辺までそんな文化がいろいろな形で伝わり、商売という形にもなって、それがいま極東の小さな国のローカルな場所で電気オーブンを使って円形のナーンを生産しているわけです。なかなか感慨深いものがあります。見せてくれた礼を告げてクルマに戻りました。
とにかくクルマに乗り込んで道に出てもしばらくこの場所が日本ならざる場所のような感覚が体や頭に残りました。
人の持つ、人の纏う空気というものは面白いものだと心から思います。