元祖カレーパン、なわけですよ。それはいいんです。元祖論争はなんというか、食べるだけの者にとってそれほど大きな意味はないと思ってます。
気に入っていて、食って旨ければそれでいい。
カレーですよ。
そういう中で、それでも元祖という看板に頷かざるを得ない味というものもあります。確実にあるね。
森下にあるあの老舗パン屋さんのカレーパンはそういうポジションにある価値のあるものです。この元祖カレーパン。実はわたしはカレーパンには思い入れが薄い男なのですが、ここ、
「カトレア」
のやつは別なのです。なぜ別なのか。
その理由は単純でね、カレーライスではないからなんです。なんだそれ身もふたもないな、と思われるでしょう(笑)これはね、ちょっと根源的な話しで。
カレーライスのイメージは、いい匂いでいっぱい盛られていてとにかく食べればお腹いっぱいで幸せにしてくれる。そういう安心感と満足感が憧れに変わるわけです。それがカレーライスマジック。そういうイメージであるからして、カレーパンでは残念「いっぱい盛られていてとにかく食べればお腹いっぱい」的見地から行くと役不足を感じてしまうのです。
ところがこの
「元祖カレーパン」
は、言ってしまうとパンが主ではなく、カレーのかたまりをパンで薄く包んだ様なスタイルなわけです。とんでもないことだよ、それくらいフィリングが多いんだよ。
先ほどの「カレーパンには思い入れが薄い」とかを軽々と打破「とにかく食べればお腹いっぱいで幸せにしてくれる」があるんだよねえ。驚くべきことです。
パンであるのにこれがあるのはすごいこと。聞けばパン生地が40gに対して具が70gという割合らしくてね、なるほど納得です。ほら、カットして断面を見るとこれでもか!とカレー餡が入っています。もう嬉しくなっちゃうよね、この感じ。
甘めのカレー餡。「カレー餡」というものいいが一番ピタリとくるとわたしは思っているんですが、ぽってりとした、垂れ落ちないほぼ固形のカレーが入り、味はといえば戦後大流行りとなった洋食のカレーライスそのものの味。これが今日まで動態保存されているという奇跡をね、噛み締めるわけです。
そして、「ここのは別」という理由はもう一つあります。
当時、というともう50年以上昔ですが、子供時代、大島6丁目団地とピーコック(旧松坂屋ストア)になる前のあの広い敷地は、確か三菱製鋼の工場であったはずです。その前を結構な幅と深さのドブ川が流れていて、私の実家はその目の前にありました。今は埋め立てられて緑道になっている首都高小松川線下の竪川が台風で溢れると、どぶ川と道の境目がわからなくなります。通勤の工員さんがドブに落ちたりしていたのを記憶してします。
そんな場所に子供時代に馴染んだパン屋さんである「メイカ堂」がありました。確か記憶では新大橋通りと交差する中央銀座商店街の6丁目側あたりの角にあったと覚えています。
少し薄暗く、斜めに日差しが入るそのパン屋でよく甘食を買ってもらってました。とにかくメイカ堂の甘食が大好きだったんです。そして今は子供時代に欲した甘食を卒業しての、元祖カレーパンなのです。そう、メイカ堂はどうやらカトレアの支店なり暖簾分けなりであったようなんです。
正確には「カトレア」の前身となるお店は明治10年深川常盤町で創業の「名花堂」。「メイカドウ」なわけです。その近くの新大橋通りには洋菓子店の「カトレア」の名義のお店を出していたそうです。昭和2年に「洋食パン」として実用新案登録されたのが「カレーパン」のルーツ。のち昭和45年に店名「カトレア」を残して統一。ケーキの店は統合され、扱いがなくなって現在のパン店の形になったそうです。
当時、三菱製鋼の工場があったあの場所。周りも小さな切削加工工場や木型屋、板金工場などばかりの工業地域が昔の下町江東区でした。そんな場所で生半可な量と味のカレーパンでは体を使う仕事の工員さんたちが黙っていなかったでしょう。だからこそのあの満足感なのです。
そして今でも大島7丁目中の橋銀座のそばにあるのが「メイカセブン」。こちらは創業は昭和33年。創業店主が森下「名花堂」(現カトレア)で働いていた縁で暖簾分けを受け取りました。本家の屋号変更に合わせて「名花堂」もお店の名前を「メイカセブン」と改めます。これは現住所の大島7丁目から来ているそうで、そういうのすきだな。
そしてわたしが子供時代に通った「メイカ堂」。わたしの記憶にあるのは大島3丁目32番地界隈。もしかすると分家なのか、それとも大島3丁目時代がメイカセブンにあったのか。
調べてみたいな。