閉店の知らせからの駆け込み、いつもは躊躇するし遠慮することがほとんどです。わたしなんぞよりも大事な常連さんがいらっしゃるわけで、そういう人たちに席を譲りたい。そういう思いが先に立つからね。
カレーですよ。
しかし、この店の最後と聞いて我慢ができなかったんです。珍しいよな、と自分を自分で見て思いました。
3月末日でもうすでに閉店廃業、としている新宿御苑前の、
「草枕」
最後の最後、廃業宣言のそのあとひと月、馬屋原店主の采配で、常連さんや関係者の人限定のフォームを作ってそういう人たちだけを招待できるように調整を図ってくれたんです。そこに思いの丈を書き散らして末席をいただくことができました。なんという僥倖。ありがとう、ありがとう。
そうやって新宿御苑にやってきました。うまくお客さんを絞れたようで、いつもならビルの外まで行列をなすランチタイムが静かで落ち着いた雰囲気に。ああ、すこしなにかほっとするなあ。
店に入って腰が落ち着くとクローブやスターアニスのような香りが鼻腔を刺激してくるんです。そうだった。こうであったよな、草枕って。
最後だからね、メニューを眺めながら色々と考えすぎたんですが、ここはひとつ自由にしようと思い、
「エビとプチトマトのカレー」
に決めました。いつも何度も注文してきたやつです。
辛さ3、ごはん大盛り、ナスと発酵バター追加としました。草枕でのわたしにとっての理想を作り上げる感がありました。
やってきたカレー、いつもながら神々しい。いつも以上かもしれないね。
そしていつも思う通りのことをまたも考えちゃってて、そういう自分に対してクスリと小さな笑いが出ました。なにかというとね、「少ないなあ、もっとたくさん頼めばよかったなあ」という話し。いや、ちがうんだよね、それ。
まとまりが良く美しいカレーなので小さく少なく見えるんです。いつでもしっかりおなかをいっぱいにしてくれること、間違い無いのにね、それ知ってるのに。何度もそうやって繰り返してきました。最後もそうだったからちいさく笑ってしまったんだ。
エビ、こんなに甘かったか。こんなに食感がはっきりとしていたかあ。綺麗で発色の良い何かが目に飛び込んできて頭の中がシャキンとクリアになるような、そんな感覚がありました。発酵バター、やはり必須。頼んで心から満足します。この厚みをくれる旨いバターはあるとやっぱりいいもの。うれしい、おいしい。
ナスもね、こんなにも風味豊かだったっけか。ハッとしてしまったよ。焼き目美しく、こんなによかったかと繰り返してしまいます。
草枕のカレー、こんなによかったっけか。そうだったか、こんなによかったんだよね。そうだった。これほど良いものだったんだ。ひとつひとつの素材や調理がちゃんと確立、完成していてとにかく行くところまでちゃんと行ってる超完成体。それがこれだな。そういうものが今を境にこの世からなくなってしまう。なんということだろう。
だからこその廃業、馬屋原店主のその胸中、少しだけわかります。だってこんなに完成形だから。崩しちゃいけない思いはわかります。
壁のカウンター席について今日の記憶をなにか残しておこうと苦戦するんですが、すぐにスマートフォンのキーボードを叩くのがやんなっちゃって諦めました。魅惑的な香りがそこここからやってきてなかなかそんなものに集中できないから。
そりゃあ仕方がないことだよ。そんなのよりものさ、舌と鼻と目で、覚えておこう。そっちのがいい。愛しむように食べていきます。だからだな、ナスひとつ、トマトひとつにこうも気持ちを入れ込んでたべていくなぞなかなか無いよ。
馬屋原さんには店に入った時にホールにいらっしゃってほんの一瞬だけ目が合って、頭を下げることができました。よかったよ。会計の時にはいらっしゃらなかったようで、本当に残念だったな。
そして、外を歩きます。そうだった。こうなるんだった。帰り道、帽子の中を流れる汗と、口の中に残るこのいい匂い。これこそ草枕だったね。そうだった。そんなこととをしているうちに旧店舗も見たくなってね。
外に出ると雨が降り出していました。涙雨、か。いろいろな春の別れの涙雨だな。