【コラム】デスマス調に戻してみようと思う、という話し。本当はブログ移行の変遷のこと。

なぜ15年も続けたブログの文調を変えたのか、ですが。

いや、なんとなくです(笑)

うん、なんといいましょう。混乱もありました。顛末がどんなだったかメモをしておこうと思いました。

この混乱と決定は、数ヶ月ののちにわたしの人生的な岐路と決断に繋がってすごく面白かったので記録しておこうと思います。自分メモ的ではあります。

 

ことの発端はYahoo!ブログのサービス停止から始まります。

Yahoo!ブログからの移行をせざるを得なくなってからの、その後の移設先の方針決定には結構な時間がかかりました。

 

Yahoo!ブログのサービス停止の発表。発表から半年ほど経って更新作業ツールの停止=新規投稿不可。それから完全停止、データ全消去までにそれぞれ一定の期間があったとはいえ、移行先の環境と操作性や機能、なにより移行後の再現性など不透明なところが多かったのでギリギリまで方針を迷いました。本当に迷ったよなあ。

そして、データの移行をして、そこのプラットフォームで素直にアーカイブを生かしてそのまま更新を続けるのか。アーカイブはアーカイブとして別に置き、他のブログサービスで更新するのか、などの選択です。自分でサーバーを立てるなり借りるなりしてコツコツとアーカイブを自分管理ブログに再構築するか。いっそその再構築ですべての記事にアカを入れてリニューアルするか。そんなことも結構本気で考えました。なにしろ文作業を仕事としているわたしです。ブログはとても大切で、自分の仕事や生活を後から俯瞰できるモノでもありますから。

 

で、こんな経緯でした。

 

1段回目としてYahoo!ブログの移行サービスは使わずに、吸い出し、移行機能が強力でその後のデータの自由度などから「FC2ブログ」でアーカイブすることに決定。これは今でもいい決断だったと思っています。

アメブロ、シーサー、ライブドア、はてな。Yahoo!が提示してきた移行先はなんだかどこも肌に合わなかったんです。

それで新しいプラットフォーム、FC2で少し新規投稿をしてみたけれど、これがまたどうもピンとこない。FC2が悪いわけではなくてね。

 

2段回目、それでいろいろ悩んで、もともと考えていたnoteで新記事の執筆投稿を始めることに。アーカイブとバラバラになることに懸念は覚えていたのですが、心機一転だ、と無理やり気持ちを納得させての更新開始です。

決め手はnoteのサービスに深津貴之さんが参加したから。noteの会社、piece of cakeでCXOに就任した深津さんを昔から割と盲目的に信頼しているので。UX デザインやUIデザインでnoteに改善をもたらす役割のトップに彼がいるということで、ただそれだけで決めました。

note、なかなか使い出が良くて気に入ったんですよね。はてなみたいななんとなくある古いサービスの住民の空気と圧力みたいなのもないし、居心地がいいです。皆さんにもオススメできます。

 

そしてやってくる、3段回目。

これがわりと大袈裟ではなくわたしの運命、その後、というか今ですが、人生の転換点でもあろう最後の移行です。全部書きます。長いよ。

 

経緯は遡ること2014年春。ぐるなび社がお取り寄せの情報とECのサイトを作るという話でお声をかけてもらったのですが。

↑↑(スクリーンショット https://ippin.gnavi.co.jp/article-8923/

文筆を生業にするわたしにタダで書けという若い営業担当。陳健一さんも藤子先生にも同じお願いをしていて、、というその若者を叱り飛ばし(陳さんは鍋を振って稼ぎ、藤子先生は漫画を書いて稼ぐ。わたしは本業で文章を書くのだが君は本業をタダでやれという。そのことをどう考える、という話をとうとうと)背中を向けた時に間に入ってうまく収めてくれたのが友人の、当時ぐるなび社に勤務していた山森さん。以来粘り強い担当さんに引き継いでいただきへそまがりのわたしから毎月原稿を引っ張り出してくれて、そんな連載が2019年5月まで続いていました。残念ながら担当殿から連絡が来なくなり、なんでだろうと思っていたらどうやら担当者が随分少人数に縮小された様子。連絡が来ないということは、もう義理は十分果たしたのであろうと判断。こちらから連絡を取ることはしていません。頑張ってくださり、いろいろなお力をいただいたご担当と当時のぐるなび社の代表にはいまでも大変に感謝しています。本当にありがたい。記事のアワードも取ったことあるんですよ。年間最優秀賞です。いまでもたくさんアーカイブが残っているのも誇らしいです。

 

そのサービス「ippin」の、先ほど文中に出てきたクリスマスパーティー。そこで出会ったのが日本初のフードスタイリスト、マロンさん。とても目立つ方で何度かパーティーでお目にはかかっていましたが、だんだん顔を覚えてくださって、パーティー以外で飲みに誘ってくださったりで光栄でした。

日本初のスタイリスト(服飾)、高橋靖子さんと以前お知り合いになれて天にも登る気持ちでしたが今回も同様。二人のトップ(正真正銘、本物の日本のトップ)スタイリストさんと仲良くなれるなんて、と大いに興奮しました。

マロンさんの食のシーンのスタイリングは本当に素晴らしいもので、15年もカレーの写真を撮り続けてきたわたしにとって尊敬すべき、見習うべき方でした。

そんなお付き合いの折、マロンさんがご自身がプロデュースしたマロンさんの秘密基地とも呼べるキッチンスタジオ「デジタルキッチン 」で開催の「マロンの夜会」にお誘いを受けて遊びに行きました。

当然主役はマロンさんで、本当に凄い方だと思い知ったのがその場所でのマロンさんをみてからでした。とにかくすごい。エンターテイメントというものがある。お料理とおしゃべりなわけですが(たまに歌も)、そこの隅々にエンターテイメントというものが溢れていて、そういうなかで本当に会場にいる一人一人のお客さんにそれが届いているかをマロンさんが緻密にみていらっしゃる。それで、お友達とではなく一人で来ているお客さんにもちゃんと楽しくなってもらうように声をかけたり、会場全体に投げかけをしたりと自由自在。

圧倒される中、一人の男性をマロンさんから紹介されて話し込みました。それが「デジタルキッチン 」を擁する会社「サンブロードバンド 」の代表、菅野さん。マロンさんは多くの皆さんとの交流でお忙しいので、すみでマロンさんが作ったご飯を突いて楽しんでいたわたしに時間を割いてくださってたくさんのお話をしました。そのときはどちらかというとわたしが一方的に喋ってばかりだった記憶があるのですが。

そんなきっかけがあって、マロンさんとご一緒することが多くなり、そのなかで菅野さんとお喋りする時間がたくさんできました。どうにも楽しくていつでもたくさん喋ってしまいます。

そんな時間が続き、仲良くなった菅野さんがある日「はぴいさん、ホームページ作りましょうよ」と声をかけてくださったんです。イメージはweb上のわたしの秘密基地、それとweb上の出版社。デジタルでの発信を全てそこからできるようなイメージです。あれよあれよという間に骨子が固まり、担当デザイナーまでつけてくださって、よく通ってくる謎のおじさんであるわたしを「サンブロードバンド 」の社員の皆さんも覚えてくださって。

その中で、ブログはWordPressで構築、サーバーは自社サーバー、今までのブログアーカイブも全て吸収して一本化、という方針が出ました。これはもういうことがない。これですべてです。願ってもないことです。

それで、マロンさんは相変わらずわたしのことを気にかけてくださって、いろいろとお誘いをもらって楽しい時間をもらっています。目玉が飛び出るようなお誘いもあったりして(このあいだのアンドシノワーズとかね)幸せいっぱいです。そしてマロンさんからご紹介をいただいた菅野さんとも強い信頼をもってつながることができ、日々一緒に何か新しい仕事や楽しいことを探しています。

そういう中から生まれたのが、今皆さんがみているこのブログ、このホームページなのです。

そしてこのホームページを核としていろいろなビジネスのアイディアを作り出したり窓口にしたり、以降の自分の仕事の看板、窓口、ショールームに、と考えています。すごくなりますよ、これから。すごく面白いことたくさんやりますので。一緒にやりたい人は今のうちに手をあげておいた方がいいです(笑)

それで冒頭、なんで15年も続けたブログの文調を変えたのか、それをまたもどすのか、なんですが。

 

書いた通りなんとなくです(笑)

 

うん、なんだろな。ここまで来るまでに自分の中では混乱もあったんですけど。

最終的にはいろいろと面倒を見てくださっている菅野さんが「はぴいさんらしく」という言葉をいつでもキーワードにしてそれを軸にこれからを話してくれます。

より自分らしく、か。どういう感じかな、それ?

そんなことを考えるに、このブログはもとどおりデスマス調でやっていった方がらしいかなあ、と思ったのです。何しろ15年やってますからもう「らしさ」というよりも、そういうこと、はぴさんはそういうことでしょ?みたいな外からの感じ方見え方もありますしそういうご意見も聞きます。

なので、noteでスタートを切る時に「いい加減いい歳のおじさんだからデスマスはやめてみっか」という、今から思えばそんなに考えてないなあ、という決定を撤回することにしたのです。

ブログの原稿を書いていて、その中で知らぬうちにデスマス調で書いていることが多かったんですね。それではたと気がついて。そのまんま自然なまんまがいいじゃない、って。

 

そしてこの混乱と収束は、いまもそうなんですが、こののちもわたしの人生的な岐路と決断に必ず繋がっていたと気づくはずで。

記録はやっぱりしておかねばと思ったのです。