
3月の終わりにご縁をいただいて、伊豆高原にあるファスティング・リトリート施設「やすらぎの里 養生館」に5日間の滞在、断食の体験をしてきました。
数日前の記事にも書いたんですが、なぜいまそのことをブログなのか、というとわたしも執筆で参加している地方創生メディア「KURAFT」で短期集中連載が掲載になったから。ここまではSNSだけでのお届だったんですが、編集を経た読み応えがある記事として掲載になりました。ぜひ読んでね。
それで、割とハードコアなレポートが書けたと思うんですが、そちらとは別に、自分の忘備録としても「やすらぎの里 養生館」の5日間で書き溜めたメモを残しておきたいな、と思ってここに載せることにしました。もうそのまんまのメモを貼り付けるので「KURAFT」の記事と連動して読むと面白さが厚みを増すと思います。
断食とかリトリートのレポートってわりと女性の目線で書いた物が多いですよね。あたしゃりっぱに60代に足突っ込みまして、そういう年齢の男性がレポー^とすることに意義を感じてるんですよ。なんでか。60代って定年を迎える歳です。今定年を迎える男性は昭和モーレツサラリーマンの生き残りも多いはずで、時間も曜日も家族も関係なく死ぬほど働いて、そんで定年という人たちが多い気がします。そういう人たち、カラダ、ガタきてます。きっと健康のことで手探りしてます。そういうところに向けたメッセージにならないかなあ、という思いがあります。たったの1例ではありますが、誰かのお役に立てばいいなと思っています。
断食メモ 出発1週間前「よく噛んで食べてみることにした」

よく噛んで食べてみることにした。人に言われてやるのではなく、断食というキーワードから自分から自然にそうしてみようと思ったのだ。1週間ほどすると断食が始まることになっていた。
よく噛む、時間をかけて咀嚼するというのは楽しい。食べの物の味をより深く知る入り口になると思うから。いつもより長く口の中にあって、よく咀嚼して、舌でいつもより入念にかき混ぜてみることにする。すると脳へ伝わる味の情報密度が濃くなる。あ、そうか、と当たり前のことに気がついて納得する。
例えば秋刀魚のしょうが煮の秋刀魚の苦味と旨み、生姜のシャリッとした食感、煮っ転がしのジャガイモの舌にざらりと残る食感。例えばカレーチャーハンのベーコンの旨みやタマネギのしんなりした食感。こうやって言葉にしようと考えながら食べても解像度が上がる。
これはちょっと楽しい遊びだと思う。忘れていた何かが戻ってくる感じがある。
断食メモ 出発1週間前 その2「腹が減ったら食べる」

当たり前のことができていない。
「腹が減ったら食べる」
生き物として、人として、至極当たり前のことのはずがいろいろなものに押し流されて、それができていない。ストレスかもしれない。生活習慣かもしれない。仕事のプレッシャーかもしれない。こびりついた記憶と体験からかもしれない。それを洗浄、刷新しなければいけないのだ。
空腹の時間を作らねばならない、と強く思うのだ。思えば空腹の時間があまりない。仕事柄もあるが、腹が減らない。減らないわけではなく「腹が減った」という感覚とその感覚を感じ続ける時間が短い。
古い言葉というのは使い古されている。なので、たとえば「言葉の意味の深いところを見ずに」というのを今風の言い方に言い換えてみる。「レイヤーの浅い階層だけを見ていて解像感が低い」などいえばいいかもしれない。使い古された言い方「よく噛んで味わって食べなさい」は聞き流されがちの昔っからの言葉だが、言葉にするとそうなってしまうのだが、その裏には強い意味がある。それを今やり直しをさせられている感がある。自分が自分に、だ。
噛んでいくと食感が変わる。噛んでいくと味わいも変わる。その変わりゆく変化、グラデーションをなんとか記憶に留めるために頭を働かせる。これがとても楽しい。たとえば先ほど食べた白メシと昆布。当たり前のもの、よくあるもの、取り立てて特になんでもないもの。そういうものが輝きを増して「気が付いてないのはお前だけ、なにやってんだか」と言ってくるのだ。なんと面白いことか。
カレーばかり食べている。刺激強く振り幅が大きな食べ物のジャンルといえよう。しかし頭のリセットをすると、イコール日常の当たり前の食べ物に対して自分の解像感をステップさせてやると、普通の食事がカレー以上の楽しさ、繊細さ、面白さを持っていることに気がつく。
ただ出されたものを食べるのではなく、自分で迎えにいって、その上で自分からそれらのポテンシャルを引き出してあげるのだ。それが「腹が減ったら食べる」ということ。「よく噛んで食べる」ということ。ちょっとした頭の体操、ゲームのようなものか。楽しいのでそんなことを、ぜひあなたも。
断食メモ 出発2日前「またよく噛んで食べた。」

よく噛んで食べるのが楽しくなってきた。断食前なので食事量を徐々に減らしていっている。刺激物も控えている。
それで、朝食を食べたのだが、よく噛んで食べて楽しかった。仕事柄、食べたのもを言語化することを意識している。いつでもそういう頭なのだが「よく噛む」という行為だけでその幅や体験が大きく変わるのを、わかっているつもりで逃していたことを痛感する。
ごはん、味噌汁、昆布の佃煮。それだけなのだがずいぶん楽しい。ごはんを口に放り込んで、昆布をそこに追加して、よく噛んで、舌で掻き回す。これが楽しい。よく噛んでいくと味わいも食感も変化する。そこを楽しむ。昆布との混じり方も変わり、味の変化につながる。口の中でそのグラデーションの調整をしてやるのだ。
口の中でよく混ざってまず完成。そのあとに確かめ。少ししょっぱさが足りないなあ、と昆布を箸で少し摘んで口中に追加。どうかなこれで、とまた噛んでかき混ぜて。噛んでかき混ぜないと追加の量が適切だったかわからない。だから噛む。混ぜる。噛んで混ぜてやると脳みそが受信する「食べてるぞ電波」が強くなり、いつもより量が少ないのに嬉しさは倍になる。これをちょっと意識してやってやると驚くほど満足感が上がる。もちろん個人差はある。
ずいぶん楽しいものだなあ、と思う。わかっていたはずだがこういうのは意識をしないと、自分から迎えに行かないとなかなか手に入りにくい。なにしろ食事は日に3度。間食なども入ろう。そういういつでも、の行為は日常の中に沈んで行きがちで、だから意識をしてそれを実行する。「意識してやる」というのは言葉にすると義務のようなニュアンスを纏うがさにあらず。楽しみとして、趣味として、幸せにターボがかかるからやる。素直にそう思う。
断食メモ 出発前日「イメージの海」

たとえば。
昆布の煮物を食べる。旨い。それで終わらせない。
昆布はどこからやってくるのだろう。海の中の岩場に取り付いて揺られているはずだ。その光景をチラリと思い浮かべる。それが陸にあがって大鍋の中に飛び込む。醤油や味醂、砂糖などで甘辛く煮付けられてゆく光景をチラリと思い浮かべる。そんなことを考えながら食べるとなぜかいつもの200円ほどの昆布の煮物が尊いものに見えてくる。いつもの2倍美味しくなる。
人間の舌は騙されやすいし人間の脳もそんなものだ。だから自分で騙されにいく。楽しみとして、趣味として、わざとそういうものに騙されてみる。これがとても楽しいのだ。自分で自分の感覚を改造、補強しているような気分である。昔の特撮番組「人造人間キカイダー」でも、ダークロボットにやられて光明寺光子に頭と腕までを修理取り付けてもらったあとにキカイダーが自分でその後を修理するシーンがあった記憶がある。そんな感じか。自分で自分をチューニングしていく。とてもおもしろい。
さて、明日は出発だ。
続く
断食メモ KURAFTリンク
断食あるいはファスティング体験で見えた景色1〜事前情報と心構え〜
https://kuraft.jp/review/fasting-program-1/
断食あるいはファスティング体験で見えた景色2〜自宅での準備〜
https://kuraft.jp/review/fasting-program-2/
断食あるいはファスティング体験で見えた景色3〜5日間の日常〜
https://kuraft.jp/review/fasting-program-3/
断食あるいはファスティング体験で見えた景色4〜結果と気づき〜
